嶋田◆さてこれからお話を始めますが、まずご紹介しておきましょう。
左から、先ほどお邪魔した「都屋」の佐久間さん。
そして、さきほどお邪魔した「本牧ガーデンセンター」の細野さんです。駆けつけてくれました。
右側が、本牧の町内会長、石田さんです。
司会は私、横浜シティガイド協会の嶋田が務めさせていただきます。
本牧というところは花の栽培農家が多くて、昭和の初めでも18軒の農家がありました。
その中で一番古いのが通称ジャーメン農場、藤沢花園というところです。
細野さんのお母様はその藤沢の系譜だということですが、まずはその辺のところからお話を伺いましょうか。
細野◆祖父は造園業を行っていたのですが、そのいとこがジャーメン農場を始めたのです。西洋ツツジ、アザレアを日本に初めて持ち込んだのが藤沢でした。
▲石田兵一著『雲水伴侶』より ジャーメン農場
嶋田◆スクリーンにジャーメン農場の写真が映っていますね。これは、こちらの石田さんのお父様からお借りしたものです。
さて、石田さん、今日歩いたところは本牧通りですが、電車道ともいわれていましたよね。
石田◆市電がきたのは、明治の終わり頃でしょう。最後は昭和45年でした。
本郷町という停留所がここ旧上台市場の前にありました。昭和17年頃までです。
そのあと箕輪下、本郷町を廃止して本牧1丁目という停留所を作ったのです。
戦後は小港から三渓園まで商店はありませんでした。その間は全部進駐軍でした。
嶋田:いまの新本牧地区ですね。接収地の風景を見せてもらいましょう。
ほんとうにフェンスの向こうは外国でした。
さて、そこで本牧の花屋さんです。
細野◆昭和30年頃は、米軍の人たちも景気よかったのです。1ドル360円でしたからなおさらでした。
日本人に比べれば非常に良い給料だったと思います。
クリスマスともなると、アメリカ人はいいものがあれば買い替える。一軒の家の中で、2本3本と飾っていました。庭にも部屋にも。
大きいのは天井を突き抜けるほどのものもありました。
ほかの花屋では、クリスマスになると花束や洋蘭などがどんどん出ました。1輪500円くらいで仕入れたのを1万円2万円で売れたそうです。
嶋田◆洋花が多いですね。ほかの町だと菊などが登場するけど、本牧はやはり違うのかな。
細野◆蘭やバラなどを扱うと需要が多かったのです。日本人にとっては高嶺の花でしたが。
嶋田◆米軍がいてアメリカナイズされた町だったわけですが、今日歩いていただいたのは昭和30年代のレトロな雰囲気でした。
(つづく)
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