2010年10月6日水曜日

第2回商店街うんちくツアー 交流会(最終回)

 嶋田◆綿の打ち直しがなくなったのはいつごろからなのでしょうか。

佐久間◆さきほどの映像(接収風景)で見ていただいた頃でしょうか。
 外国から新しいものが入ってきて、感化されていったという感じですね。

嶋田◆かつては両親から贈られる婚礼布団というのもありましたが。

佐久間◆今では結婚する人たちが自分たちで相談して作ったり購入したりしています。
 一番お金をかけるのは海外旅行です。家具も作り付け。布団もだんだん間に合わせになってきている。
 なかでも安価で大量生産のものはすごいです。布団の皮の一部だけ穴を残し、そこからピストルのような工具で一気に綿を入れると中でふわっと広がります。それをミシンで縦横に塗っていくと布団の出来上がりです。
 これで仕立て代が8円くらいです。それを敷き布団掛け布団4枚で、日本に持ってくるときは1800円くらい、それが7000円、8000円で売られているのです。

嶋田◆時代が変わってきているんですね。
 今日はこういうお話をここでお聞きしましたが、商店に行けばこういうお話が伺えるんですよね。
 ということで、会場に商店の方がいらしていますが。



岩崎◆お店は昭和27年に3坪で始めました。
(昭和31年に撮影した本牧1丁目・本郷町の風景写真を映しながら)
 お祭りのときの仮装行列です。商店街にはまだまだお店がたくさん並んでいました。

嶋田◆他にどなたか。

Yさん◆商店を回って、店主さんが本当に嬉しそうにお話をするのを見ていて、こちらも嬉しくなりました。

Mさん◆面白い町ですね。小学校のときから市電を使ってここを通っていました。
 当時は磯子に住んでいたのですが、トンネルを抜けたくてこっちまで小学校に来ていたんです。
 古い電車ではなく、新しい1200型なんかが来るのを待つわけです。
 話は変わりますが、今日は、このお惣菜が美味しかったです。こういうのを食べることができて良かったです。
 ただ、最近は台所のついていない家とか、風呂の要らない人とか出てきています。先ほどの布団のお話にもありましたが、世の中どんどん変わってきているなと思います。
 


Yさん◆本牧を舞台にしていろいろ書いています。開港期の本牧を扱ったのもあります。
 大正時代にはチャブ屋というのもありました。それを書いた小説もあります。
 終戦直後の接収されていた時代のことはノンフィクションでも書いています。
 そんなことで、何度か本牧の通りを行ったり来たりしているんですが、今日歩いてみてこんなに多彩なお店があって、しかも一つ一つの店に面白い歴史があるなんてのは、やっぱりここに来てじっくり聞かせてもらわないとだめですね。
 今日はこのあと、夕市があるようなので、そこで買い物をしていきます。





さん◆私が子供の頃は、母が綿を買ってきて手で布団を作っていました。おそらく洗い張りなんかもやっていたと思います。
 しかし、いま、私はそういうことはできないし、日本の生活文化が伝承できなくなっていっているんだなと感じています。
 そういうなかで、ご商売をやっている方々が連綿とつなげていただけることはありがたいと思います。

(おしまい)







第2回商店街うんちくツアー 交流会(3)

嶋田◆さて、寝具というのも大きく変わったと思います。
 これはアメリカ軍とは関係ないのでしょう。
佐久間◆これが大ありなんです。米軍がきて、まず困ったのがベッド。
 マットレスを買っていただいて、これをベッドに仕立てる。当時はそういうのを配達するにしても、すべて自転車でした。
 綿を9本自転車に積んでガス山を登ったものです。


嶋田◆当時は配達するのが当たり前という部分もありました。
先ほど商店街を歩いていたら「配達始めました」という張り紙を見ました。
戦後の寝具は何が大きく変わったのでしょうか。

佐久間◆今日ご参加いただいた方の中には、立派な婚礼布団を買ってくださった方もいます。
 婚礼が変わりました。丸井さんができて、丸井方式の布団が売れて、一般専門店の布団が売れなくなってきたのです。
 いわゆる合繊綿というのが登場します。ナイロン綿とか、テトロン綿とかですね、綿と変わらないものを作り上げていました。
 やがて、それも変わっていきます。羊毛綿です。それから羽毛布団に変わっていく。







空の石油タンカーで中国から北京ダックの羽根を乗せて日本に来ているのですよ。これは、羽根布団の材料にしています。
 羽根をむしられた水鳥は、裸のまま50メートルくらい先の湖まで飛んでいきます。
 そして10分から20分もすれば、新しい羽が生えてきます。
それを2、3回繰り返す訳ですから、身体にはほとんど栄養が回りません。
 

これをちょっと、ご覧ください。
 1枚180万円の布団に湯買われている羽毛です。これは北欧に棲むアイダーという鳥のものです。
 
この羽根は鳥からむしり取るのではなく、巣の中で卵を温めるために敷いてある羽根を、鳥が巣立ったあと人間がいただいてくるのです。
 小さな巣ですので、布団1枚作るのに1300個も必要なのです。
 ですから180万円というお値段に納得いただけたでしょうか。


第2回商店街うんちくツアー 交流会(2)

嶋田◆さてこれからお話を始めますが、まずご紹介しておきましょう。
 

 左から、先ほどお邪魔した「都屋」の佐久間さん。
 そして、さきほどお邪魔した「本牧ガーデンセンター」の細野さんです。駆けつけてくれました。
 右側が、本牧の町内会長、石田さんです。
 
 司会は私、横浜シティガイド協会の嶋田が務めさせていただきます。

 本牧というところは花の栽培農家が多くて、昭和の初めでも18軒の農家がありました。
 その中で一番古いのが通称ジャーメン農場、藤沢花園というところです。
 細野さんのお母様はその藤沢の系譜だということですが、まずはその辺のところからお話を伺いましょうか。

細野◆祖父は造園業を行っていたのですが、そのいとこがジャーメン農場を始めたのです。西洋ツツジ、アザレアを日本に初めて持ち込んだのが藤沢でした。














▲石田兵一著『雲水伴侶』より ジャーメン農場
 
嶋田◆スクリーンにジャーメン農場の写真が映っていますね。これは、こちらの石田さんのお父様からお借りしたものです。

 さて、石田さん、今日歩いたところは本牧通りですが、電車道ともいわれていましたよね。

石田◆市電がきたのは、明治の終わり頃でしょう。最後は昭和45年でした。
 本郷町という停留所がここ旧上台市場の前にありました。昭和17年頃までです。
 そのあと箕輪下、本郷町を廃止して本牧1丁目という停留所を作ったのです。

 戦後は小港から三渓園まで商店はありませんでした。その間は全部進駐軍でした。

嶋田:いまの新本牧地区ですね。接収地の風景を見せてもらいましょう。
 ほんとうにフェンスの向こうは外国でした。


 


 さて、そこで本牧の花屋さんです。

細野◆昭和30年頃は、米軍の人たちも景気よかったのです。1ドル360円でしたからなおさらでした。
 日本人に比べれば非常に良い給料だったと思います。
 クリスマスともなると、アメリカ人はいいものがあれば買い替える。一軒の家の中で、2本3本と飾っていました。庭にも部屋にも。
 大きいのは天井を突き抜けるほどのものもありました。
 ほかの花屋では、クリスマスになると花束や洋蘭などがどんどん出ました。1輪500円くらいで仕入れたのを1万円2万円で売れたそうです。

嶋田◆洋花が多いですね。ほかの町だと菊などが登場するけど、本牧はやはり違うのかな。

細野◆蘭やバラなどを扱うと需要が多かったのです。日本人にとっては高嶺の花でしたが。

嶋田◆米軍がいてアメリカナイズされた町だったわけですが、今日歩いていただいたのは昭和30年代のレトロな雰囲気でした。
(つづく)



第2回商店街うんちくツアー 交流会(1)

 4軒のお店を巡ってきた参加者が上台集会所に戻ると、そこには昔懐かしい惣菜が用意されていた。

 




 
3月に行った第1回のツアーでは、商店街で購入した食材を使ったナポリタンを試食したのだが、今回は訪問先の一つである「大野屋」で買ったお惣菜だ。

 参加者が食べているところにtvkテレビの取材も。

 
  
 取材記者:ツアーに参加してみて、いかがでしたか。
参加者A:生まれたときから本牧に住んでいるけれども、気がつかないところが結構あるんだと。参加してみてよかったと思います。

取材記者:今日の感想はいかがですか。
参加者B:近所でも知らないことが多いですね。聞いてみて自分の地域の歴史を知ることはすごい醍醐味です。
参加者C:今は便宜上、スーパーへ行くけど、地元の力を見直しました。


取材記者:課題も出てきたのでは。
参加者D:本牧だけではなく、横浜市の問題になってくるが、いろいろな所でこういうような運動があって、活動をしている人たちの交流を深めれば、もっと見方も変わってくるのでは…。

 試食中の取材が終わって、いよいよ座談会の開始。

(つづく)


2010年10月1日金曜日

第2回商店街うんちくツアー ふとんの都屋(1)

最後のお店は上台集会所前にある寝具の「都屋」。
 店内は商品でギッシリのため、通路はかなり狭いが、参加者全員がそこに入り込み、店主から“うんちく”を聞く。



 
 
みなさん、綿の打ち直しをご存知でしょうか。

 昔、豆の皮を剥く道具がありましたよね。くるくる回りながら叩いて皮を落とす。あれで布団綿を叩いてホコリをとるわけです。
(敷き布団に使っている綿を示しながら)
打ち直しが終わると、こんなによくなります。
 (へえ~!)

 「てんしんめん」というの、聞いたことがありますか。天津麺だと食べる方になってしまいますが、天津綿です。
 最高級の綿で1本15,000円くらいします。

 これ2本で敷き布団1枚が作られるわけで、皮とか手間賃などを考えると1枚4万円近くなります。

 


今の時代、そこまでして綿の布団に挑戦する人は減ってきています。羊毛布団に変わってきているのです。
 綿をもう一回見直してほしいですね。

 これは羽布団の羽根ですね。水鳥の胸の毛、ダウンボール。これは保温性を高める羽根で、大きいほどいいものです。
 その横に生えている羽根がスモールフェザー。これは通気性を高めるものです。




これは座布団ですが、形は長方形なんですね。
 旅館なんかに行くと出されるときは横長です。「どうぞ胡座を組んでくつろいでください」ということです。
 縦長の場合は改まった場合です。正座をするので縦長。

 まだまだ、いろいろとお話はあるのですが、あとは交流会の席で…。

 面白い話が次から次へと出てくるので、もっと聞いていたかったのだが、スタート地点の上台集会所に戻る。

 「大野屋」の惣菜の試食が楽しみである。




第2回商店街うんちくツアー 細野植産 本牧ガーデンセンター(2)













2010年9月27日月曜日

第2回商店街うんちくツアー 細野植産 本牧ガーデンセンター(1)

 惣菜の「大野屋」を出たグループが次に向かったのは、本牧1丁目にある「細野植産 本牧ガーデンセンター」。
 洋風の花屋さんである。






以下は、細野さんのお話。

 お店では園芸と生花を中心にやっていますが、本業は造園業です。庭とか公園や街路樹などです。
 
 戦後は本牧に米軍ハウスがたくさんあり、その庭を管理する園芸会社としてやってきました。

 そもそもは、母親の実家が六角橋で昔から造園をやっていたんです。親父はそこで働いていて、ここの現場をまかされていました。
 ここが飯場となり、ここから米軍ハウスの方へ仕事をしに出かけていたわけです。

 この本牧通りには花屋が15、6軒あります。扱うものはお店によって違いますが。

 父親から聞いた話ですが、クリスマスシーズンにツリーを1000本売った年もありました。
 富士山の裾野でモミの木を切り出してきた業者がそれを買ってくれないかと言ってきたんです。

 12月22日でした。そんなたくさんあっても売れそうにないから要らなかったのですが、安くするからというので買ったんですね、1000本も。
 それをここで降ろしていたら、アメリカ軍の人たちが買っていくんです。完売しました。


  市電が走っている頃は、この辺には飲み屋さんもたくさんありました。 
 気分が良くなると、アメリカの兵隊さんがピストルを撃ち込んだりしました。うちの壁にも撃たれたことがあります。

 この通りの向こうには川があって、よくシジミを採ったものです。これでみそ汁を作っていました。ハゼもいましたねぇ。

 娘が本牧小学校で野菜作りのお手伝いをしていたときに、生徒から「こんなのができたよ」とか、「こんな工夫をしたら良くなった」みたいなカードが送られてきました。

 それを身内だけで見ていてももったいないので、店内に張り出しました。
 こういう仕事をしていて、皆さんにも喜びを味わってもらうと、自分もうれしいですね~。












お話を聞いたあと、次のお店に向かおうとした参加者にサプライズが。
 球根のプレゼントがあったのだ。

細野植産のHP

 ちなみに、細野さんはTVチャンピオンにも出場しているとか。

2010年9月23日木曜日

第2回商店街うんちくツアー 大野屋(1)

小澤建具店を出た一行は、すぐ近くにある「大野屋」へ向かった。
 
 創業して90年近くなる総菜屋さんだ。
 ツアー終了後は上台集会所に戻って、そこで行われる交流会で惣菜を試食することになっている。



以下は大野さんのお話。


 創業したのは震災前。場所は昔の上台市場でした。
 
 最近は煮物からサラダ、ハンバーグなど洋風のもなどいろいろ作っていますけど、最初は漬け物と煮豆くらいでした。時代とともに総菜は変わってきました。

 ウズラ豆は農林大臣賞をいただいています。甘煮昆布も昔からの定番です。ハンバーグは最近始めたんです。評判いいですよ。









(店内で食べられるんですね、との問いかけに)
 カウンターとこちらのテーブルでランチを食べられるようにしました。
 ランチはメインを決めたら、惣菜を2種類選んでもらいます。
 それにみそ汁、ご飯、お新香をつけて魚が500円、肉が600円です。

 お客さんですか? 近くにあるタクシー会社の運転手さんがよく食べに来てくれますよ。






横浜橋にも「大野屋」がありますが、あれは暖簾分けした店。六角橋もそうです。ほかにも、暖簾分けはたくさんあります。
 ここから出て行った人が始めて、そこからまた分かれて、あちこちで26軒くらいありますね。


 ここで試食したいところだったが、それはツアーの最後で。
 時間が来たので次のお店へ。
(つづく)